第1回 「嘘」

  背中まであった髪をばっさりと切った。
 失恋ごときで情けないとは思うけれど、気持ちを入れ替えるための儀式のようなものだと自分自身に納得させる。心配して電話をかけてきた実家の母には「切ったのが髪だっただけ、まだましと思ってよね」と笑えない軽口を叩いて泣かせてしまった。
 会社の昼休み、トイレでひとり鏡の中の見慣れぬ自分と対峙しながら、ことさら明るく微笑んでみた。しかし気分はちっとも明るくならず、かえってえもいわれぬ寂寞感に包まれた。
 別れ話を切り出したのは自分のほうなのに。
 
 わたしの父親は絵に描いたような悪徳政治家である。
「正直者は馬鹿をみる」と口癖のように年がら年中呟き、己の利益のためならば平気で薄汚い嘘をつく、ある意味政治家の鑑のような狸親父を幼い頃からずっと目の当たりにしてきたわたしは、絶対こういう人間にだけはならないでおこうと心に誓って生きてきた。そのせいか、気がつけばわたしは嘘というものをつくことができない体になっていた。たとえそれがどんな些細な嘘であろうともである。自分で偽りの言葉であるとわかっていながらそれを口にした瞬間、体が拒否反応を起こし、ひどいときには胃の中のものをすべて戻してしまう。仲のいい友人には「嘘のひとつやふたつ、上手に使いこなせないと、恋愛は上手にできないよ」としょっちゅう言われるのだが、ダメなものはダメなのだ。
 昨日別れた彼氏にも、わたしはこう言った。
「ごめんなさい、通勤電車でいつも同じ車両に乗り合わせる高校生のことが気になって仕方ありません。こんな気持ちを引きずったままあなたとこれ以上お付き合いするのは忍びないので、別れてください」
 このときの彼氏が見せた、泣いていいのか笑っていいのか決めかねるような中途半端な表情をわたしは一生忘れることができないだろう。実際には存在しない彼氏の人格的なマイナス面をそれらしくでっちあげ、さも嫌気がさしたといった表情とともに別れを切り出したほうが、まだしも納得できるのだろう。それはわかっている。わかっているのだけれど……。
 正直者が馬鹿をみる――のだろうなあ。
 これといった修羅場にも発展せずに、2年付き合った彼氏とあっさりとさよならした翌日の今日、わたしはどうしても仕事にやる気を出せないでいた。自分でふっておきながら言うのもなんだけれど、精神的にかなりこたえているらしい。女とはかくも身勝手な生き物なのか。
 もうすぐ昼休みも終わってしまう。鏡の中の自分とにらめっこをして遊ぶ時間も、もうおしまいにしないと。
 しかしどうしてもやる気がでない。デスクに戻りたくない。パソコンに向かいたくない。ない、ない、ない。
 いっそのこと早退してやろうかという邪念が頭をよぎる。しかし早退理由をなんとする? 「体調が優れなくて」というのはだめだ。実際体の調子はなんともない。微熱もなければ、頭痛のひとつすら訪れてくれない。となればこれは嘘だ。嘘のつけない私にはこの言い訳は使えない。これは道徳的うんぬんとはまったく別次元の問題なのだ。
 ならばいっそのこと、「昨日彼氏と別れたばかりで仕事に身が入らないので、早退させてください」と正直に言うか。いや、さすがにそれはリスキーだ。翌日出社したら自分のロッカーが無くなっているかもしれない危険を冒してまでするべき言い訳には思えない。
 さてどうするか、とあれこれ悩んでいると、バッグに突っ込んでおいたままの携帯電話が鳴った。ディスプレイを見ると弟からのメールだった。
 
「彼女にふられた。泣きそう。てか泣いてる」

 おお。
 姉弟ふたり揃って同時期に失恋するという、奇妙なシンクロニシティにわたしは思わずにんまりと頬を緩めた。と、その瞬間わたしの頭にそれこそ神のごときアイデアが飛来した。 わたしはトイレを出ると、まっすぐにオフィスに戻った。
 課長のデスクの前まで行き、愛妻弁当をちまちまと食べている彼に向かって、神妙な声で切り出した。
「実は……」
 普段出さない神妙なトーンで切り出された課長は、なぜか体全体で弁当箱を隠しながら聞いてきた。
「な、なに?」
「いきなりで申し訳ありませんが、本日はこれで早退させていただきます」
「な、なんで?」
 わたしは嘘偽りなく、申し立てる。

「身内に不幸がありまして」

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