第4回 「恋の病」

「こいびょうです」
 若い医師は僕のレントゲン写真を凝視しながら言った。
 ≪こいびょう≫というその音が、とっさに脳内で漢字に変換できなかった。鯉病? 乞い病? 今までの人生の中で聞いたことのない病名だ。
 不審げに眉をひそめる僕の表情を見てとり、医師は卓上のメモ用紙にボールペンで「恋病」と書いた。端正な顔立ちとは裏腹に、字は綺麗とは言えないな、と僕はどうでもいいことを思う。
「はあ、恋病」
「簡単に言うと」
「はい」
「恋の病、ですね」 
 簡単に言われたところでピンとこない。僕が知る恋の病といえば、好きな異性のことを思いすぎて、胸が苦しくなるという、どちらかというと少女漫画に出できそうな精神状態のことである。具体的な肉体の疾患とは結びつかない。そもそも僕は目の前の医師に対して意中の女性が存在するとも言っていないし、第一、町の内科医がレントゲン写真を見ただけで診断できる内容のものではないだろう。一瞬かつがれているのでは、とも思ったが医師の目は真剣そのものであり、口元は少しも笑っていない。
「あの、恋の病というと?」
「してますよね、恋?」
「……」
「一般的にはあまり知られていない疾患ですが、放っておかないほうがいい」
 メタルフレームの眼鏡を押し上げながら、医師は言う。
「緊急手術の必要があります」
 そう言って医師はレントゲン写真の右の肺の部分をボールペンで指し示した。

 右の胸に圧迫感を覚えだしたのは1週間ほど前からだった。
 最初は油ものを摂りすぎたせいで胸焼けでもしたのかな、と考えて特に気にも留めていなかった。翌日になれば治まっているだろうと楽観視していた。ところが翌日になっても、翌々日になっても症状は治まらず、それどころか症状は悪化していった。最初は圧迫感のみだったものが徐々に痛みを伴うようになってきた。そして昨日あたりから呼吸がしづらくなる事態に至り、ようやくただ事ではないと思うようになった。
 出勤前に診てもらおうと最寄りの内科を訪れたところ、恋の病などという冗談みたいな診断がくだされたばかりか、手術の必要性まで突きつけられた。なにがなにやらさっぱりなのも無理のないところだろう。 
 わざわざボールペンで指し示すところを見ると、該当箇所に手術が必要だという理由があるのかもしれないと思い、僕は医師が持つボールペンの先を見つめた。
「よく見ていただくとわかると思うのですが、ここに影のようなものがあるでしょう」
 医師の言葉に思わず頷く。よく見なくても一目瞭然だった。
 肋骨の間にひとつ小さな黒い影があり、その影から細い棒状のものが、ちょうど上下に並んだ肋骨を斜めに横切るように伸びていた。さらによく見ると、その棒状のものには小さな突起物がいくつも並んでいる。
 嫌な想像が頭をかすめる。
「これは……、悪性の腫瘍かなにかですか?」
 すると医師は少し苦笑して、
「と思われるのも無理はありませんが、腫瘍ではありません。ただし放っておくと命に係わることには変わりありませんが」
「というと?」
「ここにある突起物が肺を内側から攻撃しています。胸の痛みの正体はこれですね。棘ですから」
「とげ?」
「そうです。まだ肺に収まるとても小ぶりなサイズですが、放っておくとどんどん成長し、肺を圧迫しますし、今も言ったように、肺を内側から傷つけます。最終的には呼吸困難を引き起こし、死に至ります」
 死に至る。
 その言葉に衝撃を受けた。ふわっと体が軽くなりそのまま後ろに倒れそうになった。
まだ20年そこそこしか生きていない自分が命に係わる病に侵されるとは思ってもみなかった。1か月前には合コンで心をときめかせる女性に出会えたばかりだというのに。自分のこれからの人生はバラ色だと心を躍らせていたのに。
なんとか平常心を保ちつつ、僕は医師に尋ねた。
「これは……、この影のようなものはなんなのですか?」
 医師は軽く咳払いをすると、レントゲンから僕に視線を移してこう言った。
「信じられないかもしれませんが、これは、あなたの恋心を栄養分として育ったバラです」

「パパ、ボール蹴って!」
 小学校1年になる息子の弘樹が飛び跳ねながら手を振ってくる。
 僕は手を振り返し、芝生の上を転がってきたサッカーボールを蹴り返す。ボールはあさっての方向に転がって行った。
「へーたーくーそー!」
 弘樹はボールの後を走りながら追いかける。
 庭に面したリビングルームの中からその様子を見ていた妻は思わず噴き出した。
「あなたの運動音痴が弘樹に遺伝しなくてよかったわ」
 妻とは10年前に結婚した。最初は僕が一方的に片思いをしただけの大恋愛だったが、度重なるアタックの末、妻は僕と付き合うことを了承してくれた。僕は妻のタイプではなかったそうだが、熱意に心を動かされたのだという。
 3年間の交際期間を経て僕は妻にプロポーズをした。妻は快く受け入れてくれた。また、その当時勤めていた会社を退職し、かねてより念願だったデザイン事務所を立ち上げ独立することもできた。今では事業も成功し、子供にも恵まれ絵に描いたような幸せな生活を送っている。
 今日は僕たちの10回目の結婚記念日だった。このあと弘樹を連れて3人で都内のレストランで外食することになっている。
 庭で元気にボール遊びをする弘樹を眩しげに眺めながら妻は言う。
「この10年あっという間だったわ。出会ってからだと13年ね。最初はなんてしつこい人だろうと、半ばあきれた気持ちであなたのことを見ていたけれど、今となってはそれもいい思い出。これからもよろしくね」
「うん。こちらこそいつもありがとう」
 僕は窓際の花瓶に挿してある一輪のバラにそっと目をやる。
 妻にプロポーズをした当時、まだ独立する前だった僕は経済的にひっ迫しており、婚約指輪を購入する余裕がなかった。そこで妻にはプロポーズの言葉とともにこのバラの花を一輪差し出した。
 13年前、僕の体に中に芽生えた小さな小さな真紅のバラ。
 外科手術で取り出したそのバラは、不思議なことに現在も枯れずに綺麗な花びらを開いている。今も僕の妻への気持ちをその小さな花弁に蓄えているからかもしれない。
 1日の終わりの西日を受け、今日もそのバラは誇らしげに咲いている。
 
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